ブログでこんな事を書いていいのか悩みましたが、
みんなに社長の考え方などを知ってもらいたくて書く事にしました。特に若い子たち。
突然ですが、私の古巣、ビッグオガワの社長が亡くなりました。
17歳から12年間修行させてもらった所です。
苦しむ暇も無いくらいに安楽死だったそうです。
・・・・
私が17歳の頃バイク事故で片足が少し不自由になり
その頃していた大工の仕事もできずプライベートでも色々と問題が有り
フラフラとしていた頃、兄の紹介で雇ってもらった(いや、ひろってもらった)
のが、ビックオガワと言う名のバイク屋さんでした。
社長は自動車整備屋さんで、副業で自宅を改造してバイクショップを営んでいたのですが、
任していた方が辞められてから1年くらい閉店されたままでした。
後任を探しておられた所に私が紹介されたのです。
その頃の私は17歳、当然自動車免許も無く、
片足は引きずったまま90度も曲がらない膝、
ただただ「バイクが好き」だけは有りました。
◎面接の時に言われた言葉。
「もうワシも人を育てるのに疲れた。ただもう一度だけやってみようと思う。
1日で辞めようが、10年居ようがあんたが最後や」
「よう聞きや仕事はな、時計ばかり見ているようでは向いていない証拠や。
ふと気がついたら閉店時間になっているのが、向いている証拠や。
1週間やって時計ばかりみてしまうなら辞めてくれていいで」
「1ヶ月、半年、1年、3年、5年、7年、10年、必ず迷いはくる
ただこの迷いはどんな仕事でも来る。これを乗り越えたら先は楽しくなる」
「独立したくなるのが当たり前や。だからそれまでは頑張って欲しい。
その頑張りは誰の為でも無い。自分に全て跳ね返ってくる」
と・・・その時はあまり意味も分からずとにかく「ハイハイ」「よろしくお願いします」
しか言えませんでした。
次の日店に連れていかれ、若かった私にとっては決して「良い店」とは思えなく、狭くて地味な時代遅れに思えました。自転車とスクーター数台、型遅れのレプリカ2台が
ホコリまみれになっていました。
その頃世間はバブル景気後半、華やかで綺麗が当然でした。先輩達は高級車に乗り
ご飯はいつでも誰でも奢ってくれていた時代でした。
ましてや17歳、「なんでこんな店に就職したんやろ。もっと設備の整った大きな
綺麗で新車がズラリと並んだ店にしとけば良かった・・・」
それはそれは後悔からスタートです。
始めの話では社長の仲の良いバイクショップから私を教える為にスタッフを
1年間来てもらう話しでしたが、半年もしないうちにそのショップが忙しく
なったので帰ってきてくれと・・・
そこで17歳の私はいきなり一人ぼっちです。という事はそんなガキに社長は
店を任してしまったのです。
なんて無茶な社長でしょうか。17歳ですよ。きっと社長は「なんとかなるやろ!」
と開き直ったのでしょう。。
でもそこから私も変わり始めました。
悔やんでいても仕方ない。こんな私でも社長は店を任してくれたんや。
どこまで出来るか分からないけどやるだけやってみようと決意しました。
◎その時に言われた言葉。
「あんたは商売人の子やから商売の才能はワシより絶対ある。
だから自分の思うようにやったらいい。責任は全部ワシが取るから」
「どんだけ1ヶ月稼いでも3日遊んだらパーや。だから毎日こつこつと
同じペースで継続的に仕事するのが1番や」
やはりその頃の私は言っている意味が分かりませんでした。
自転車のパンク修理や中古スクターの販売がメインだったのですが、
1年が過ぎようとするとき近くの学生さんがCBR250Rの修理依頼が
来て一元さんでこれが始めての大きなバイクの修理依頼だったのです。
キャブの調子を見てあげて整備し納車するとそれはそれは喜んでくれて
今でも思い出します。
そのCBRオーナーが友達を紹介してくれ数台250~400の新車を買ってくれました。
◎そこで確信できたのは社長が常々言っていた言葉
「真面目にこつこつと頑張っていたら口コミでお客さんが来る
口コミほど強力な宣伝はないんや」
それを切欠に大きなバイクとおばちゃんスクーターの頻度が半々くらいになりつつある
入社5年が経つ頃
限定解除ブームが到来したのです。
自分でもびっくりするくらいにバイクが売れました!
その時に初めて社長に直談判しました。
自転車は一切触らない。僕はバイク屋や!自転車をやるなら中途半端じゃあかんと
思う。これからはバイク屋が片手間で自転車を触ったらお客さんに失礼や!
もっと給料くれ!ボーナス増やせ!!設備入れろ!!
なんて奇麗事ならべて吼え倒しました。
まー若気のいたりと言いますか、今の売れ行きは全て自分のお陰やろ!くらいに
思っていた私でした。人間調子に乗るといけません。
今から思えば、ほんと調子に乗っていました。社長・・・すんません。
◎ その時の社長は
「分かった。分かった。給料も上げてやる。自転車もやらんでいい」
「自分の好きにしたらいい」
その頃はほんとの意味は分からなかったです。今になってほんとの意味が分かります。
その時に「分かった分かった」って中々言えません。。僕には真似できません。
いつまでもいい時は続かないものです。完全にバブルのようなもの。
◎ そこで又私・・・社長に大迷惑をかけてしまいました。
レースです!ずーとしたかったレースをやり始めたのです。
「社長、レースしたいのですが・・・」
「分かった、タダ一回でも怪我したらレース辞めや。約束やで」
あんのじょう怪我して入院です。
3ヶ月は休んだでしょうか。そらー怒られるは、クビや!って言われると思いきや、
冷静に、「やったものはしゃあない。はよ治して出ておいでや。それまではワシが
出来るお客さんはやっとくは。」
もう完全に大迷惑です。
それでも冷静に優しい言葉をかけてくれました。
こんな人でないと社長になったらあかんのでしょうね。
本来なら人生を踏み外す所、またひろってもたいました。
約束通りレースは辞めました。
それから数年順調に進み20代で必ず独立すると言う自分との約束を果たす為
28歳後半に社長に独立を相談。
みんなに社長の考え方などを知ってもらいたくて書く事にしました。特に若い子たち。
突然ですが、私の古巣、ビッグオガワの社長が亡くなりました。
17歳から12年間修行させてもらった所です。
苦しむ暇も無いくらいに安楽死だったそうです。
・・・・
私が17歳の頃バイク事故で片足が少し不自由になり
その頃していた大工の仕事もできずプライベートでも色々と問題が有り
フラフラとしていた頃、兄の紹介で雇ってもらった(いや、ひろってもらった)
のが、ビックオガワと言う名のバイク屋さんでした。
社長は自動車整備屋さんで、副業で自宅を改造してバイクショップを営んでいたのですが、
任していた方が辞められてから1年くらい閉店されたままでした。
後任を探しておられた所に私が紹介されたのです。
その頃の私は17歳、当然自動車免許も無く、
片足は引きずったまま90度も曲がらない膝、
ただただ「バイクが好き」だけは有りました。
◎面接の時に言われた言葉。
「もうワシも人を育てるのに疲れた。ただもう一度だけやってみようと思う。
1日で辞めようが、10年居ようがあんたが最後や」
「よう聞きや仕事はな、時計ばかり見ているようでは向いていない証拠や。
ふと気がついたら閉店時間になっているのが、向いている証拠や。
1週間やって時計ばかりみてしまうなら辞めてくれていいで」
「1ヶ月、半年、1年、3年、5年、7年、10年、必ず迷いはくる
ただこの迷いはどんな仕事でも来る。これを乗り越えたら先は楽しくなる」
「独立したくなるのが当たり前や。だからそれまでは頑張って欲しい。
その頑張りは誰の為でも無い。自分に全て跳ね返ってくる」
と・・・その時はあまり意味も分からずとにかく「ハイハイ」「よろしくお願いします」
しか言えませんでした。
次の日店に連れていかれ、若かった私にとっては決して「良い店」とは思えなく、狭くて地味な時代遅れに思えました。自転車とスクーター数台、型遅れのレプリカ2台が
ホコリまみれになっていました。
その頃世間はバブル景気後半、華やかで綺麗が当然でした。先輩達は高級車に乗り
ご飯はいつでも誰でも奢ってくれていた時代でした。
ましてや17歳、「なんでこんな店に就職したんやろ。もっと設備の整った大きな
綺麗で新車がズラリと並んだ店にしとけば良かった・・・」
それはそれは後悔からスタートです。
始めの話では社長の仲の良いバイクショップから私を教える為にスタッフを
1年間来てもらう話しでしたが、半年もしないうちにそのショップが忙しく
なったので帰ってきてくれと・・・
そこで17歳の私はいきなり一人ぼっちです。という事はそんなガキに社長は
店を任してしまったのです。
なんて無茶な社長でしょうか。17歳ですよ。きっと社長は「なんとかなるやろ!」
と開き直ったのでしょう。。
でもそこから私も変わり始めました。
悔やんでいても仕方ない。こんな私でも社長は店を任してくれたんや。
どこまで出来るか分からないけどやるだけやってみようと決意しました。
◎その時に言われた言葉。
「あんたは商売人の子やから商売の才能はワシより絶対ある。
だから自分の思うようにやったらいい。責任は全部ワシが取るから」
「どんだけ1ヶ月稼いでも3日遊んだらパーや。だから毎日こつこつと
同じペースで継続的に仕事するのが1番や」
やはりその頃の私は言っている意味が分かりませんでした。
自転車のパンク修理や中古スクターの販売がメインだったのですが、
1年が過ぎようとするとき近くの学生さんがCBR250Rの修理依頼が
来て一元さんでこれが始めての大きなバイクの修理依頼だったのです。
キャブの調子を見てあげて整備し納車するとそれはそれは喜んでくれて
今でも思い出します。
そのCBRオーナーが友達を紹介してくれ数台250~400の新車を買ってくれました。
◎そこで確信できたのは社長が常々言っていた言葉
「真面目にこつこつと頑張っていたら口コミでお客さんが来る
口コミほど強力な宣伝はないんや」
それを切欠に大きなバイクとおばちゃんスクーターの頻度が半々くらいになりつつある
入社5年が経つ頃
限定解除ブームが到来したのです。
自分でもびっくりするくらいにバイクが売れました!
その時に初めて社長に直談判しました。
自転車は一切触らない。僕はバイク屋や!自転車をやるなら中途半端じゃあかんと
思う。これからはバイク屋が片手間で自転車を触ったらお客さんに失礼や!
もっと給料くれ!ボーナス増やせ!!設備入れろ!!
なんて奇麗事ならべて吼え倒しました。
まー若気のいたりと言いますか、今の売れ行きは全て自分のお陰やろ!くらいに
思っていた私でした。人間調子に乗るといけません。
今から思えば、ほんと調子に乗っていました。社長・・・すんません。
◎ その時の社長は
「分かった。分かった。給料も上げてやる。自転車もやらんでいい」
「自分の好きにしたらいい」
その頃はほんとの意味は分からなかったです。今になってほんとの意味が分かります。
その時に「分かった分かった」って中々言えません。。僕には真似できません。
いつまでもいい時は続かないものです。完全にバブルのようなもの。
◎ そこで又私・・・社長に大迷惑をかけてしまいました。
レースです!ずーとしたかったレースをやり始めたのです。
「社長、レースしたいのですが・・・」
「分かった、タダ一回でも怪我したらレース辞めや。約束やで」
あんのじょう怪我して入院です。
3ヶ月は休んだでしょうか。そらー怒られるは、クビや!って言われると思いきや、
冷静に、「やったものはしゃあない。はよ治して出ておいでや。それまではワシが
出来るお客さんはやっとくは。」
もう完全に大迷惑です。
それでも冷静に優しい言葉をかけてくれました。
こんな人でないと社長になったらあかんのでしょうね。
本来なら人生を踏み外す所、またひろってもたいました。
約束通りレースは辞めました。
それから数年順調に進み20代で必ず独立すると言う自分との約束を果たす為
28歳後半に社長に独立を相談。
◎ その時も
「退職金は多くは渡せないが、店の道具、軽トラ、それと全てのお客様を
持って行き」
「ワシで出来る事が有ったらなんでも言っておいで。」
「困ったら相談するんやで・溜め込んだらあかんで」
暖かい言葉を頂きました。
でもその時は自分の未来への期待と不安で一杯一杯でした。
あまり感謝の表現も出来ず自分の事ばかり・・・・
無事BlueCafeオープンの時も誰よりも大きな植木を持ってきてくれました。
独立してからもちょくちょくは遊びに来てくれて世間話し。
◎ 会う度に言われた言葉
「儲けんでもいい。人に後ろ指さされる仕事だけはしたらあかん。」
「とにかくつぶれたらあかん。細々でもいいから続けなあかんで」
「とにかく自分の会社つぶしたらあかん。ぜったいにあかん」
去年も肺を悪くされ緊急手術。その時も車検と納車がどうしても今日有るから
帰らせろと病院でだだをこねて仕事したらしい。
きっと年末に亡くなられたのも仕事収めで納車が全て終わっているからでしょう。
納車が終わるまでは死ぬに死ねないと思っていたはずです。
雇われている時はただただうっとおしいウルサイおっさんでしたが、自分が独立してから
偉大さが分かります。ぜったいに曲がった事や嘘が嫌い。バカが付く位の仕事バカ。
職人中の職人でした。また一人職人と言う財産を失いました。
やはり残された最後の弟子として今後若い人達に社長のスピリットを伝えて行かなければ
行けません。ほんとうに辛くて悲しいですが、みんなに伝えていきたいと思います。
小さい体で大きな名前のビッグオガワさん。安らかに眠って下さい。
きっと今日から天国でも誰かの何かを修理したり熔接したりしていると思います。
「退職金は多くは渡せないが、店の道具、軽トラ、それと全てのお客様を
持って行き」
「ワシで出来る事が有ったらなんでも言っておいで。」
「困ったら相談するんやで・溜め込んだらあかんで」
暖かい言葉を頂きました。
でもその時は自分の未来への期待と不安で一杯一杯でした。
あまり感謝の表現も出来ず自分の事ばかり・・・・
無事BlueCafeオープンの時も誰よりも大きな植木を持ってきてくれました。
独立してからもちょくちょくは遊びに来てくれて世間話し。
◎ 会う度に言われた言葉
「儲けんでもいい。人に後ろ指さされる仕事だけはしたらあかん。」
「とにかくつぶれたらあかん。細々でもいいから続けなあかんで」
「とにかく自分の会社つぶしたらあかん。ぜったいにあかん」
去年も肺を悪くされ緊急手術。その時も車検と納車がどうしても今日有るから
帰らせろと病院でだだをこねて仕事したらしい。
きっと年末に亡くなられたのも仕事収めで納車が全て終わっているからでしょう。
納車が終わるまでは死ぬに死ねないと思っていたはずです。
雇われている時はただただうっとおしいウルサイおっさんでしたが、自分が独立してから
偉大さが分かります。ぜったいに曲がった事や嘘が嫌い。バカが付く位の仕事バカ。
職人中の職人でした。また一人職人と言う財産を失いました。
やはり残された最後の弟子として今後若い人達に社長のスピリットを伝えて行かなければ
行けません。ほんとうに辛くて悲しいですが、みんなに伝えていきたいと思います。
小さい体で大きな名前のビッグオガワさん。安らかに眠って下さい。
きっと今日から天国でも誰かの何かを修理したり熔接したりしていると思います。